禎子について


SADAKO LEGACY ロゴマーク






この折り鶴は1955年亜急性リンパ性白血病で死亡した禎子が、死期が迫りくる中で折った折り鶴の遺品です。



「禎子」

風が気持ちいいって知っていますか?
空気がおいしいって知っていますか?
当たり前のようにあるける事
あたりまえのように眠れること
当たり前のように眠れること
いつもはそれが
当たり前にだと思っていませんか?
あたりまえの事がどれだけありがたいことか
あなたに伝えたい・・・・禎子より






禎子は、12歳で体験した事の無い極限の苦を味わいました。しかも、一人でその苦を自分の胸に隠し続けました。極限の、苦を体感したからこそ、命の尊さ、ありがたさを感じ取ったのです。
そして限りある命と知った中で、両親や兄、弟、妹や周りの人達に強烈な痛さの限界を超えるて、心配りをしながら耐えたのです。その姿はあまりにも自然で苦を感じさせない生き方は、天が佐々木家に預けられた天使だと思います。


心の在り方はそれぞれですが、折り鶴を折る事「想いやり」の心が世界をつなげることを、サダコの命から教えられました。

これこそが禎子がこの世に送られてきた特別の使命だったのです。





<使命とは>

命を使うと言う事であり、使うと言う事は借りていることなのです。
借りているものは大切に、有効に役立ててこそ価値が出てくるものです。

価値は人が認めて初めて、その人の生き方の存在価値として、鏡として映るのでしょうか?
ついの時、みんなから涙されなくても、しっかりと追憶され、心に刻み込まれたら、本当に嬉しい!!




オーストリアに贈られたサダコ鶴(真中クリスタル台の上)


サダコが伝えることば
更新中


違いを乗り越える為に・・・




2017年がやってきました。これは時に休みはなく、これから一刻一刻が変化して行くことを表しています。誰も逆らえない動きは、皆様だけでなく、最低限の生活が出来てないみんなにも一応に組み込まれています。私達はこの大切な時を、そんな方々の為に使わねばならないと思います。

















サダコについて


佐々木禎子の生涯



 1949年幟町小学校入学当日の写真(自宅前で撮影)

広島市平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルとなった、原爆の被爆者の一人である佐々木禎子(サダコ)は、2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録されました。

1945年8月6日午前8時15分、爆心地より1.6Kmの広島市内楠木町の自宅 で2歳のとき被爆したサダコは、被爆から10年後に原爆症を発症し、1955年2月21日に広島赤十字病院に入院、入院時のカルテには「サブアキュート・リンパティク・ルキーミア」と英語で診断されています。これから8ヶ月の入院生活がはじまりました。(当時小学6年生12歳)

同年8月、名古屋淑徳高校からお見舞いに贈られた折り鶴の意味を知り「千羽鶴を折れば、願いが叶う」と信じながら、薬包紙や見舞い品の包装紙で、折り鶴を折り始めました。8月の終わりには1,000羽以上を折り上げています。しかし病状の悪化と共に折り鶴は徐々に小さくなり、生きたい、良くなりたいとの思いを、より強く込めるため針を使って折るようになります。

差し込むような痛み、両親にわがままを言えない苦しみ、満足に受けられない治療、家が貧しかった為、当時サダコは、この三重苦を自分の心に隠し止め、誰にも口をふさぎ、すべての苦と願いを折り鶴に吹き込みながら毎日折っていきました。サダコが生前折った折鶴の数は千三百羽以上とも千五百羽以上ともいわれていますが、実際の数については家族でもわかりません。

サダコの死後、ベッドの下からは2月21日より7月4日迄の血液検査の数値を記録したメモが発見されました。現存しているカルテの3月4日の欄には日本語で「亜急性リンパ性白血病」と書かれており、これを見たサダコは自分が白血病であることを知ってしまったのでした。自分が辛い境遇にありながらも、明るく強く、周囲の人達を想いやりながら生きたサダコの感動的な姿を伝えるエピソードは数多いのですが、本当に苦しんだサダコの心の叫びや痛みはあまり知られておりません。しかしながら12歳の少女が痛みの中から遺した折り鶴には「想いやりの心」が生き続けています。

サダコは、願いもむなしく原爆症で12歳の人生を閉じられてしまいました。

「その悲しみを忘れない事と平和の願いを世界に」と、サダコの級友たちが「原爆の子の像」の建立を呼びかけ、1958(昭和33)年のこどもの日(5月5日)に広島市平和記念公園内に「原爆の子の像」は完成を見ました。

サダコの存在は、「千羽鶴=平和のシンボル」として世界中に広がっています。叉現在ではサダコの遺品の折り鶴も今世界の3箇所に展示してあります。シアトルの平和公園など世界の様々な所に銅像・石碑なども多数存在しています。

サダコの境涯

佐々木サダコは1943(昭和18)年に生まれ、わずか2歳の時に広島に落とされた原爆によって被爆しました。

奇跡的にかすり傷ひとつおわなかったサダコ。とても運動の得意な元気な少女に成長しましたが、被爆から10年後に突然白血病であると診断され入院しました。

千羽鶴がお見舞いに贈られたことをきっかけに、「生きたい」「家に帰りたい」という願いを込めて折り鶴を折り始めます。わずか8カ月の入院生活の末、家族が見守る中静かに目を閉じました。

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サダコの家族(右から3番目サダコ)<転載禁止>

禎子誕生


1943年

サダコ誕生、両親の願いは元気な子供に育つこと
佐々木サダコは1943年(昭和18年)1月7日
広島市楠木町(くすのき)で理髪店を営む、佐々木家の長女として生まれました。
当時日本は戦争をしており、サダコが生まれて間もなく父が召集されたため、母が理髪店を切り盛りしていました。

子爆弾の投下
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原爆投下
1945年(昭和20年)8月6日 8時15分
家族と共に爆心地から約1.6kmの楠木町の自宅で被爆したサダコは、
爆風で屋外まで飛ばされましたが、やけども傷も負いませんでした。
すぐに辺りから火の手が上がり、竜巻のようにすごい火炎が巻き上がり道をさえぎり始めました。サダコは母に背負われながら、みんなで近くの三篠川まで避難しました。

そこで運良く小舟に乗せていただきましたが、昼過ぎまで三篠橋付近で「黒い雨」に打たれました。

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サダコの自宅と爆心地の位置図

1945年(昭和20年)10月上旬
原子爆弾の投下から2ヶ月後のサダコの生活

サダコの自宅は全壊全焼したため、家族は県北部の三次の親類の家に身を寄せることになりました。
爆心地から半径2km以内の地域は爆風と熱線と火災によりすべて破壊され燃え尽くされたのです。
原爆の爆風と熱線、そして放射線は人々に被害を与えました。

当時市内には約35万人がいましたが、一発の原爆で、その年の12月末までに14万人が亡くなりました。


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父が建てた当時では珍しい3階建ての店舗兼住宅

禎子小学生に

1949年(昭和24年)
復興への新たな生活の始まりサダコは元気に育ち、1949年幟町小学校に入学しました。

戦後の混乱や物不足に苦しみながらも、再建するための努力が続けられ、佐々木家も1947(昭和22)年には疎開地から市内鉄砲町に理髪店を開き、1951年(昭和26年)新たに市の中心街に三階建てを新築移転、店も繁盛して生活に落ち着きと元気を取り戻していきました。

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リレーの練習風景(前列中央がサダコ)

1954年(昭和29年)10月サダコ、6年生に。足の速さは学校一番

6年生になったサダコ。身長135cm、体重27kg。
少しやせ気味ですが、いたって健康。
かけっこはだれにも負けません。50mを7.5秒で走りました。

運動会ではリレーの選手に選ばれ活躍し、将来の夢は中学校の体育の先生。
しかし、父も母もサダコが9月ごろから時々体のだるさを訴える事があり、少し顔色が悪いことに気付いていましたが特に気に留めることはあえてしませんでした。

11954年(昭和29年)10月サダコ、6年生に。足の速さは学校一番6年生になったサダコ。身長135cm、体重27kg。少しやせ気味ですが、いたって健康。かけっこはだれにも負けません。50mを7.5秒で走りました。運動会ではリレーの選手に選ばれ活躍し、将来の夢は中学校の体育の先生。しかし、父も母もサダコが9月ごろから時々体のだるさを訴える事があり、少し顔色が悪いことに気付いていましたが特に気に留めることはあえてしませんでした。


当時のサダコ

 

1954年(昭和29年)11月下旬病のきざし

サダコは軽い風邪をひき、首や耳の後ろにいくつかしこりができました。徐々にしこりは大きくなり、おたふく風邪のように顔がはれました。

正月明けに近所の病院に行きましたが、いっこうにはれはひかず、1月末には左足に紫色の斑点がみられました。

気になった父は1月ABCCの検査を受けさせ白血球の数値が11,200になっており、ABCCは再検査の必要性を伝え2月再検査の結果、ABCCは「白血病」の診断を下しています。しかし、父と母は、にわかには信たくありませんでした。

死の宣告

当初はおたふく風邪と思っていましたが、病院をまわって詳しく検査した結果 、白血病と診断されました。2月18日、お父さんは医者から「早ければ3ヶ月、長くて一年の命」ですと言われ、すぐ入院が必要だと宣告されましたが、サダコがそのような重病だとは、絶対信じたくありませんでした。

そして2月19日市民病院の検査に最後ののぞみをかけました。結果白血球44000にも増加しており、一日の猶予も出来ない状況だと言われ、最後の望みを絶たれてしまいました。

サダコはお父さんから「はれを治すため少しの間入院しなければならない」と説明を受け、2月21日に広島赤十字病院に入院することになりました。

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サダコのクラスメイト

同級生のお見舞い

小学校の同級生は、サダコが原爆症で入院しなければならなくなった事を担任の先生から聞き、ローテーションを組んで交代で病院にお見舞いに行きました。

卒業式では、出席できないサダコの代わりにお父さんが卒業証書を受け取りました。

中学校入学式も病院のベッドから参加しなければなりませんでした。しかしクラスの友達と同じく中学校に進学はしたものの一日も通うことは叶いませんでした。病室の棚にはいつでも学校に行けるようにカバンや教科書がきちんと整理して置かれていました。

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当時新聞で取り上げられた折り鶴

1955年(昭和30年)8月3日届けられたお見舞いの鶴

8月初旬、サダコは薬の効果で首のはれが少しひき、比較的元気でした。しかし両足には紫色の斑点が出ており、少しずつ病気は進んでいました。

そんな病院のサダコに、8月3日名古屋から色とりどりの折り鶴がお見舞いとして送られてきました。その美しさに、他の入院患者の多くも願いを込めて鶴を折るようになり、サダコもまた、病気を治したい、家に帰りたいという素直な願いを込めて鶴を折るようになりました。本当に一生懸命に折り、もう手の指も動かない辛い状態でした。

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平和記念式典

1955年(昭和30年)8月6日平和の祈り

前日外出許可をもらって家に帰ってきた禎子は、5月31日に人手に渡った家からバラック建ての家に帰り、自分の為に家を売ったんだと泣きじゃくりました。

6日傷心の禎子を伴って家族で平和記念式典に参列することにしました。しかし平和記念公園で式典を待っている途中、サダコは歯ぐきからたくさん出血し、体調が悪化したので式典には参加せず、すぐ病院に戻りました。

サダコは病院のベッドに横たわり「原爆許すまじ」の歌を歌っていました。


命の終わり


1955年(昭和30年)10月25日/広島赤十字病院にて消えた命

サダコは、自分が折った鶴に一本の糸を通して1000羽をつなげ、病室の天井からつるしました。折り始めて一カ月足らずの8月末までにサダコの折り鶴は1000羽を超えていました。

それ以降もサダコは鶴を折り続けました。

その間もガンは体を蝕み続け、7月18日の白血球数は108400にもなっており、9月末頃からは、白血球数が減少することはなくなりました。

次第に自力では歩けないほどに、体調は悪くなりました。しかしサダコはトイレも決して母や人の手は断り、痛む足で体を引きずりながら自分で行きました。痛くて辛くてたまらない時でも痛み止めの注射は命が縮むと言って決して打たせなかったのです。

そして10月25日の朝、それまでの痛みや辛さやわがままな心を全て心に秘めたまま、家族が見守る中、赤ちゃんが眠るように目を閉じました。

「原爆の子の像」建立へ

サダコが通っていた幟町中学校では、同級生達がサダコの死を聞き、ショックを受けました。そして、サダコのために何か自分たちにできることはないだろうかと考え始めたのです。

ちょうどその時、サダコをはじめ原爆で亡なくなった全ての子供の霊を慰めるための記念の像を造らないかという話が同級生に持ちかけられたのです。

同級生は賛成し、運動を始めます。この運動は市内の小・中・高校を巻まき込み「平和を築く児童生徒の会」へと大きな運動に発展しました。


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1958年除幕式の様子

想いのつながり〜現在へ

1958年(昭和33年)5月5日
「原爆の子の像」の除幕式

「原爆の子の像」建立の運動を始めて約2年半。日本中や海外の一部から、当時のお金で540万円が集まり、 多くの人の努力や善意によって、ようやく完成した原爆の子の像は毎年1000万羽もの折り鶴が捧げられ、今もなお世界中から多くの人々が平和を祈る為に訪れています。

原爆の子の像には世界各国から、年間1000万羽の折り鶴が奉げられます。


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広島記念資料館サダココーナーは下記からどうぞ。
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/kids/KPSH_J/frame/hirotop1.html

折り鶴と原爆の子の像については下記からどうぞ。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110438305305/


広島の現在と過去を知ろう!
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